戦略という言葉は元々は軍事用語です。1960 年代のアメリカで、この戦略概念が企業経営に適用されるようになりました。ここでは経営戦略の概念、これまでの経営戦略の発展の歴史などを含めた全体概要について確認しましょう。
経営戦略とは
経営戦略の定義は、識者によってさまざまです。たとえば、
- 企業の経営目的を達成するための包括的な手段として、企業の外部および内部の環境変化に適応していくための決定指針
- 経営目的を達成するための主要な方針と計画のパターン
といったものがあります。
さまざまな表現の仕方やとらえ方があるものの、端的にいえば、企業がいかに経営目的を達成し、成長していくかについての指針、ということができるでしょう。
主な識者による経営戦路の定義
- チャンドラー (A. DuPont Chandler)「企業の長期的目的および目標の決定、これらの目標を実行するために必要な活動方向と資源配分の決定」
- アンゾフ (H. lgor Ansoff)「経営戦略は、主として企業の外部的問題であり、外部環境の変化に企業を全体として適応させるために、参入すべき製品一市場構造の決定である」
チャンドラーとアンゾフの定義の違いは、チャンドラーが「経営目的」を含めているのに対し、アンゾフは含めていない点にあります。
経営戦略の歴史
経営戦略とは何か、という問いに対しては、1960 年代に始まった経営戦略の歴史において、さまざまな指揮者がさまざまな説を提唱しています。それらの説は、関連しているものもあれば、対立しているものもあり、現在においても、経営戦略は学問として一貫性のある 1 つの体系として成立してはいません。
ここでは、経営戦略の全体像をつかむために、経営戦略の歴史を外観することにします。
さて、これまでの経営戦略の歴史の大きな流れとしては、「ポジショニング派」と「ケイパビリティ派」という大きな 2 つの勢力があるということが言えます。そしてこれら両者について、どちらが正しいのか、両方を合わせるべきなのか、あるいはまったく別の答えがあるのか、というふうに、未だに統一した結論には至っていない状況です。
経営戦略の黎明期 (1900~1950年代)
経営戦略論の歴史の源流は、フレデリック・テイラーです。テイラーは、1911 年に工場などの作業現場の生産性向上と働きがいの向上を目的とし、
- 労働者の仕事量を公正に定める
- 作業を標準化する
といった「科学的管理法」を提唱しました。そして
- 労働者の意欲
- 生産効率
- 賃金の向上
などを実現したのです。しかしながらその後、科学的管理法は、人間性への配慮が十分でないといった見方をされることとになります。
テイラーの研究から10 ~ 20 年後の 1920 ~ 1930 年代、エルトン・メイヨーが「人間関係論」を提唱しました。人間関係論によると、労働意欲の向上のために重要なのは、作業環境の改善よりも、良好な人間関係の構築です。テイラーの時代は経済的な対価のためであれば単純作業の繰り返しも厭わないという時代背景がありました。対してメイヨーの時代、大衆は豊かさが増し、さまざまな欲求をもつ存在になったのでした。
テイラーが工場などの作業現場を対象としていたのに対し、アンリ・フェイヨルは、企業全体を管理対象にしました。「企業における活動を6つに分類・整理」するとともに「経営管理プロセス」の重要性を説きました。
フェイヨルによる「企業における活動を6つに分類・整理」は、ポーターのバリューチェーンとほぼ同じもの、「経営管理プロセス」は PDCA サイクルの原型と言えます。
チェスター・バーナードは、企業が 1929 年の世界恐慌などの大きな外部環境の変化に晒されていた時代に、企業体は外部環境の変化に対応していくシステムであると主張。「組織の成立要件」として、
- 共通目的
- 貢献意欲
- コミュニケーション
の 3 つを挙げました。そして、共通の目的(経営戦r)を作るのが経営者の重要な役割であるとし、1938年に「経営者の役割」として発表しました。
この時代においては、経営は企業内の管理という側面が大きかったといえるでしょう。
経営戦略論の基礎づけ(1960~1980年代)
企業経営を戦略という概念を用いて表現したのが、イゴール・アンゾフです。アンゾフは経営戦略の父と称されています。
1960 年代になると、欧米の経済は大きく発展し、企業の合併・買収が行われるようになりました。そのため、企業が複数の事業をもつことが多くなり、アンゾフによると経営戦略は、個々の事業の戦略である「事業戦路」と、企業全体の戦略である「企業戦略」に分けられます。また、現状の事業活動の延長ではない戦略を指し示す「成長ベクトル」などを提唱しました。
ここで考えられた「事業ポートフォリオ」という考え方は、経営戦路に特化したコンサルティング会社であるボストン・コンサルティング・グループによる、「PPM」といった経営・事業分析・管理ツールを生み出しました。このような、数字や事実に基づいた極めて分析的な手法や姿勢は、後に「大テイラー主義」とよばれることになります。
アンゾフによると、「競争に打ち勝つためにはコアとなる強みが必要」です。この考えは、その後の「コアコンピタンス論」や「リソース・ベースド・ビュー」へとつながります。さらに、「競争環境の特性を理解すること」にも言及していて、これはその後のマイケル・E・ポーターの「競争の戦略」につながります。
アンゾフと同い年のアルフレッド・チャンドラーは、企業の多角化が進展するなかで組織が機能別組織から事業部制組織となっていくという状況をふまえ、「組織と戦路は密接にかかわる」ことを提唱している。
ポジショニング派の発展(1970~1980年代)
ポジショニング派の第一人者は、大テイラー主義でもあるマイケル・E・ポーターです。ポーターは、経営戦略とは「儲かりうる市場」を選び(5フォース分析)、「儲かる位置取り」をする(ポーターの戦略3類型)ことが第一に重要だと主張しています。これが「ポジショニング」です。
なお「ケイパビリティ(組織能力)」は、そのポジションに合わせて必要な強化をするべきという考え方ですが、ポーターにおいてはケイパビリティは、活動プロセスである「バリューチェーン」の構成要素である。
ケイパビリティ派の隆盛(1980~1990年代)
1990 年代前半までに、ポジショニング重視の戦略を展開した企業が、徐々に業績を低迷させ、大きな経営危機に陥ることもありました。というのも、競争優位が持続しなかったからです。このような状況において台頭してきたのが、「ケイパビリティ」を重要視する戦略アプローチです。
ケイパビリティを重要視する戦略の主要なものは、ゲイリー・ハメルらによる「コアコンピタンス経営」です。コアコンピタンスとは、持続的な競争優位をもたらすコアとなる企業能力のこと。コアコンピタンス経営は、
- まずは自社のコアコンピタンスを見定め、それを活かすことが重要であり、
- そのうえでそれが有効なポジションを見定めよ、
という考え方です。これはポーターと真逆の主張と言えますね。
ケイパビリティ派の中心人物のひとりであるジェイ・バーニーは、経営資源に競争優位の源泉を見出して戦路を構築するアプローチを「リソースベースドビュー」として総称しています。また、持続的な競争優位の源泉となる経営資源を分析する「VRIO分析」というフレームワークを提唱しています。ただし VRIO 分析は、どのような経営資源が有効であるかを示すことには役立ものの、どうやってその経営資源を獲得するのか、といった点を示すには至っていないと言えます。
ポジショニングとケイパビリティの統合、今後の展開(1990年代〜現在)
ポジショングとケイパビリティのどちらを重視すべきか、という論争に対し、へンリー・ミンツバーグは「コンフィギュレーション」を主張しました。要するに、どちらを重視すべきであるかは置かれている状況に依存する、という考えです。またミンツバーグによれば、「戦路はパターン化できるものではなく、状況次第で組み合わせる必要」があります。
では、経営戦略いかにあるべきなのでしょうか。前述の通り、そして予想される通り、現在においてもただ 1 つの回答があるわけではありません。これからの経営戦略も、その動向は多種多様だと言えるでしょう。
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